義務と自由とコンテンツ
嘘、世の中のコンテンツ、多すぎ?
最近、あまりにコンテンツが多いため処理し切れていない。
デスストランディング、ポケモン、ロマサガ3、ペルソナ5R…と、ゲームだけでも悲惨な状態。
その他、映画やアニメ、漫画も消化しきれていない。巷でよく聞く積読というのも趣味になりつつある。
これらを全て消化するにはあまりにも時間が無すぎる。
コンテンツとは遊びなり!
コンテンツの消化に追われていて、コンテンツが楽しめていない節がある。
楽しめていない理由は、義務感によるものだろう。
仕事が義務によって成り立つのであれば、対して、遊び・コンテンツは自由意志によって成り立つべきもの。だが、近頃は自由意志というよりは義務によるコンテンツの消化が多いように思える。
積みゲー、積読。積むという単語から思うに、楽しむためのコンテンツを義務と感じて消化するのはどうにも違和感を感じる。
遊びとは自由で無ければならない、誰にも、例え自分であっても強制されてはいけない。
積まないことが鉄則だが、なかなかこれがなかなか難しい。
そういう時は、「本当にこれをやりたいのか?」と自問し、吟味すると良い。当たり前なことだが、これがよく効く。
本当にやりたいものなのか一度止まって問うことで、本当にやりたくない物をやらないと選択することで、義務感からの解放に繋がる。
それでも、それでも積んでしまった場合は、諦めて積んでおく。
いずれやりたいと思う時がいずれ来るだろう。やりたい時がやり時だろうと思うので、そうなるまで待つのが賢明だろう。
興味を持たれる人になろう
コンテンツが偏っていると尖りすぎてしまうので、ある程度は新しい分野にも触れるべきだろう。
とはいえ、新しいものに興味を持つというのは、なかなか難しい。特に年齢を重ねるとその傾向にある。
この場合は、人に興味を持つと良いだろう。
人に興味を持つことで、その人が持っている興味に惹かれていく、半自発的な状況を作ることによって、モノ・コトに興味を持てるだろう。
これを繰り返していくうちに、色々な人の興味の集合体となった自分が、興味を持たれる存在に。なれるといいな。
多面で眺める
積みの解消については、量より質作戦が良い。一つのコンテンツを吟味するのが良いだろう。
例えば、NETFLIXのバードウォッチというタイトル、「見てはいけない何かを見ると、気がおかしくなって自害してしまう」なんの変哲もないホラーだ。正直、面白くなかった。
そこで辞めては勿体無い。作品を見終わってから、よく考える。色々な視点で、考えてみよう。僕がよくやるのは、製作者側の視点から見る。つまりこの場合、「見てはいけない」設定により、その対象を描画する事なく物語を進行する。描画しなくても良いのであればつまり、デザインコストが無い。予算を削っていると分かる。なるほど、手法が面白い。
眺める方向を変えて、一つのコンテンツで十分に吟味することで、触れるコンテンツの量を減らす。量より質作戦。
オチは?
あらゆるコンテンツを体験するにはあまりに人生は短すぎるので、益の無いコンテンツを浴びる時間は可能な限り排除していくべきだろうとも思うがしかし、有益コンテンツだけを浴びるのはそれもまた健全と言い難し。範馬勇次郎イズム。
なんだかんだ書いたけど、今日もまた本をポチった。